趣味に乾杯!

自転車の風切りとヘッドバッジ

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風切り(フェンダーマスコット)というのは、自転車の泥除けの先端についているアイテムです。昔の実用車などに多く装着されておりました。
コレクターのお客様より多数をお譲り頂きましたのでご紹介させて頂きます。
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(上):光自転車。
(下):ゼブラ。
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(上):能澤(ノザワ)自転車。
(下):ツノダ。
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(上):丸米(マルヨネ)自転車。
(下):山口。弊店のある埼玉県羽生近辺の自転車店では、山口ベニーの看板が多かった気がします。
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(上):こちらもツノダ。文字が消えかけておりますが、よーく見ると刻印があります。
(下):秀工舎のサン号。
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さて、この辺から記憶が怪しくなって参ります(ごめんなさい)。
(上):サンスター自転車。
(下):残念ながら不明です。何方か教えて下さいませ。
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(上):H RODOSとありますね。
(下):(優)とありますので、丸優自転車でしょうか??
ううう、どなたか正解をお願い致します。
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(上):ライナー号とあります。
(下):トレードマーク S Aとありますが・・・、HELPです。
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(下)はお馴染みのブリヂストンなのですが、(上)が不明です。形からツバメ(新家)でしょうか???
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(上):日米富士です。これは分かりますね。
(中):反対側から見ると「S」です。うーん。。。???
(下):H.T.Rの刻印があります。むむむ???
マークだけだと、なかなか思い出せないですね(汗)。
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(上):ギヤK自転車です。ギヤMなら宮田なのですが・・・。
(下):PEARL/パールの文字。
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こちらはヘッドバッジです。3種類とも竹内自転車になります。
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(左)THE LONDONER
(右)VELUX
共に不明です。THE LONDONERの方はmade in JAPANの刻印あり。
(下)こちらがギヤM、宮田です。

※お分かりの方がいらっしゃいましたら、メールまたはツイッター等で教えて頂ければ助かります。

雑誌で紐解く スポーツサイクル アルプス その1

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「ツーリングはアルプスの世界です」のキャッチコピーでお馴染み、かつて東京は神田あったツーリング専門店「スポーツサイクル・アルプス(アルプス自転車工業)」。
筆者がアルプスのクライマー号をオーダーしたのは2001年頃です。この相棒でずいぶんと色々な峠に行きました。

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(雑誌『サイクルスポーツ』1988年3月号の広告より。MTBブーム前とあって、あの「MTBでツーリングですか」の刺激的なフレーズはまだ登場していない。)

そのアルプスがお店を閉じたのは2007年1月でした。来年(2017年)でもう10年になろうとしています。
アルプスといえば、雑誌『ニューサイクリング』の記事でお馴染み、2代目店主の萩原慎一氏や、フロントフォーク抜き輪行を思い浮かべる方は、もうベテランの方ですね。
もともとは大正7年に自転車製造卸「萩原卓商店」として創業した老舗の自転車店であり、昭和21年には慎一氏がスポーツ車専門店として展開。「フロントフォーク抜き輪行」を考案し、ランドナー「クイックエース」を発売します。このフロントフォーク抜き輪行がアルプスの代名詞となりました。

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(これが電車でコンパクトに運べる様に分解された輪行スタイル。ポンプの位置からクイックエースと思われる。アルプスのカタログより。)

そして息子さんの浩氏が3代目として後を継ぎ、パスハンター「クライマー」シリーズの発表となる訳です。
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(上:”スーパークライマー”、下:”ロードキング” 共に筆者所有)
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今回は、その3代目店主であり、最後の店主となった、萩原浩氏にスポットをあてて、各雑誌に氏が寄稿した文章や、ALPS号が紹介された写真などを中心に、一人のアルプスファンとして、その記憶を振り返りたいと思います。

アルプスは御存知の通りフレームビルダーではありません。フレーム製作は提携のビルダーに依頼し、設計通り上がってきたフレームを仕上げて製品にするスペシャルショップでした。

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(閉店後、早速に雑誌で特集された。2007年5月発行の雑誌『自転車人/第7号』巻頭特集。アルプスの自転車は今でもオークション等では高値取引されている。)

ここで子供向け書籍の奥付に記された浩氏の公表プロフィールをご紹介しましょう。
<昭和22年東京・神田に生まれる。開成高校を卒業後、写真専門学校、広告代理店オリオン社を経てアルプス自転車工業(株)に入社、現在に至る。いろいろなコースを走りまわりツーリングに適した「乗りやすい自転車」を考え続けて奮闘中。>
広告代理店でのカメラマンの経験から、カタログの完成車は全て氏が撮影したものでした。

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(『なんでもプレイ百科 スーパーサイクル決定版』双葉社/昭和53年)

それでは早速「雑誌」を紐解いていきましょう。

<続く>

ノボリオイゾネ/稲詰峠から茗荷峠、松ノ木峠、伏木峠へ(峠歩きの景色)

今回の<峠歩きの景色>は東京都は青梅にある小さな峠です。2003年の12月、雪の残った時期でした。


2003年最後の峠訪問は、東京は青梅地区、成木地域の峠を歩くことにした。
JR東青梅駅北口から県道に出て都バスに乗り、30分ほどで成木街道の滝成バス停に到着。
そのまま街道を西に歩き、「多摩組」と大きく書かれた資材置き場の先を左折。橋を渡って左に曲がり、道なりに歩けば開けた畑に出る。
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その左前方に、こんもりとした小道が尾根に向かって延びており(写真中央やや左)、その道が峠路のようだ。1週間前の降雪がまだ残っている。

斜面をジグザグに登れば、20分少々で鞍部に到着。標識は無いが足元に目印用の赤紐が結んである。
「稲詰(いなづめ)」とは小字名だそうだ。この峠道、昭和30年代までは児童の通学路だったという。南の北小曾木(きたおそき)川沿いにあった旧青梅第十小学校のことかもしれない?南側を覗いてみたが、降りるのは困難に感じた。
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写真右側(北)から登ってきた。この尾根を正面(西)に向かう。

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峠を北側から写す。

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紐を目印に尾根伝いを西に歩く。この尾根は高水山から派生しており、「ノボリオイゾネ」と呼ばれている。宮内氏『奥多摩』曰く「天秤棒みたいな細長い尾根」である。
上の写真は三等三角点のある411.2mの夕倉(ゆうぐら)山。展望は無く、隣の採石場からの稼動音も響くので、早々に立ち去る。
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この鞍部が茗荷峠だろうか?
途中で木材運搬用の錆びた車輪が道端に放置されている箇所がある。参考文献によれば、そこから大きく下ったところが茗荷峠とのこと。
かつては上成木村上分の梅ヶ平(たいら)と北小曾木村の白岩集落を結んでいた(『青梅市史』)。残念ながら現地では峠道を確認出来ず。

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松ノ木峠では四体の石仏が出迎えてくれた。内、元禄11年(1698年)の馬頭観音様は青梅市最古の石仏だそうだ(『青梅市史』)。
手袋を脱いで合掌。お陰さまで地形図からも消えた山道を無事に歩くことが出来ました。
そのまま尾根を進み、伏木(ふしき)峠に到着。北側から峠道が延びている。
正面に石嗣があり、注連縄と竹筒で祀られ、驚くことにお賽銭と真新しいお餅が供えてあった。今でも大切にされている証だ。下の写真、中央やや右が伏木峠の石嗣。8

峠でようやく2万5千図にも破線が現れる。あとは地図どおり、尾根の左側を縫うように進み、3本目の丸太橋で沢を渡って鋭角に戻る。じきに高水山との分岐点だ。

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高水山の分岐点に到着。何と「伏木峠」の標柱がある。守屋氏の本(文章最後に列挙)によれば、こちらは間違いとのこと。確かに『青梅市史』の付録地図でも先の方を記しているように読み取れるし、何よりも石嗣の存在が説得力を増している。ひとつ気になるのは、『青梅市史』の(明治の)「字地の整理統合」の項にて、「ふしき」の小字名が、上成木村上分と北小曾木村と、峠同様に2か所存在することだ。

軍畑へ向けて下れば、養鶏小屋もある白岩集落に出る。後は駅までひたすら歩くだけだ。


(追記)
東京の登山家M様より「増補改訂 青梅市史」付録地図にある「橋詰峠」は誤植であるとのメールを頂きました。当方も青梅市に問い合わせましたところ、やはり誤植であったとのご回答を頂きましたのでお知らせ致します(2004年2月記録追記)。
また同じくM様より、2つある伏木峠について、「成木集落で聞いた話では、祠のあるところだそうです。白岩集落ではあの辺一帯(高水山分岐から祠がある鞍部一帯)を伏木峠という人もいました。もう少し正確に調査したいと思っています。いずれに当時の様子を知っている古老が少なくなり、地名や伝承民俗など次第に調査が難しくなってきています」との大変貴重な情報を頂きました。
M様、わざわざご丁寧に有難うございました。この場をお借りして、あらためて御礼申し上げます。(2004年2月)
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【参考文献】
1.本コースは下記の書物を参照し、また文中に出典の明記がない説明も同書を参考とさせて頂いた。
・稲詰峠から松ノ木峠へ:「多摩100山」(守屋龍男著 新ハイキング社 2003年)
・松ノ木峠から伏木峠へ:「新多摩の低山 ようこそ65の山へ」 (守屋龍男著 けやき出版 1999年)
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2.文中に出典を明記したもの
・「増補改訂 青梅市史」(東京都青梅市 1995年)


峠歩きの景色を公開中。三月銀輪館のサイトを是非御覧ください。

旧正丸峠から刈場坂峠へ(峠歩きの景色)

今回の<峠歩きの景色>は奥武蔵の定番の峠です。季節は12月。今から12年前になりますが、タイムスリップしてみましょう・・・。


【年月日】2003年12月
【コース】正丸駅→正丸峠→正丸山→旧正丸峠→サッキョ峠→虚空蔵峠→刈場坂峠→高麗川源流保全之碑→正丸駅


1
正丸駅前右手の階段を降り、西武線のガードをくぐって大蔵山の集落に入る。
今日は、この冬初めての本格的な寒波が到来しているという。案の定、集落の中を歩いていると粉雪が落ちてきた。今年も秩父で初雪だ。去年は刈場坂峠だった。その時は1ヶ月も早かったけど・・・。
馬頭観音の分岐では、左手に伊豆ヶ岳の道を見送って右手に向かう。大蔵山林道と名付けられた車道もこの付近で終わり。
更に右手に正丸峠ガーデンハウスの道を見送り、あとは沢をツメていく。最後の急な階段を喘ぎながら登れば、正丸峠の茶屋の裏手に出る。
いつの間にか粉雪も止んでいた。
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(車道が超える現在の正丸峠)
茶屋でひと休み後、車道向こう側の階段を右上に上って、いよいよ尾根歩きの始まりだ。
正丸峠展望台、正丸山、川越(かんぜ)山とピークを結んでいく。頻繁に上り下りを繰り返し、特に丸太の階段が辛い。かなり体力を消耗する道だ。
そんな道でも何組ものご年配のハイカーさんとご挨拶する。皆さん、お元気だなぁ。
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(写真:尾根は手前南から降りてきて、正面北の階段を登る。)
階段を急降下して、ようやく旧正丸峠に着く。駅から約1時間半、ホッとひと息。峠を見渡すと、東西の峠道への降り口はハッキリと残っている。
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(写真:綺麗な鞍部を残している峠は良いものだ。東側から撮影。)
この旧正丸峠、昔は「小丸峠」とか「南沢峠」とも呼び、「秩父峠」の名もあったそうだ(※1)。江戸時代には、秩父と江戸を結ぶ最短距離の道として、秩父の絹を積んだ馬が列をなして峠を超えたという(※2)。秩父を結ぶ代表的な峠だったのだ。
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(写真:「サッキョ」とは狭(サ)尖峰(キ・ヲ)峠の転化と想像してみた。)
続いてサッキョ峠。2万5千図には峠道共々に記載が無い。現地でも標識がないと通り過ぎてしまいそうだ。
峠道の痕跡も良くわからない。どんな峠だったのだろう?
帰宅後、たまたま60年代の紀行文(※4)を読んでいたら茶屋の描写があった。こんな狭い尾根上にあったなんて、お店の人も毎日大変だったでしょうに。それとも昔は道幅が広く、それは車道開通と関係があるのだろうか?
7
サッキョ峠から少し歩くと東側が開けた。飯能方面の展望が良い。国道299号線だろうか、眼下に車道が僅かに見える。
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虚空蔵峠では、草むらの脇に、ワンカップとお賽銭が供えられた虚空蔵菩薩様が鎮座している。ただし石嗣の銘板は現代のものだ。新しい母屋にお引越ししたのかもしれない。
昔、西の中井の集落の人たちは炭焼きで生計を立てており、峠を越えて越生方面へ炭を運んだそうだ(※2)。当時の人もきっと手を合わせことだろう。自分も旅の安全を祈って合掌する。
9
虚空蔵峠の歴史は古い。昔は秩父出身の防人たちが越えたそうだ。
そして旧正丸峠は主に中世以降によく利用された為、最古の正丸峠は、実はこの虚空蔵峠を指していたという説がある(※2)。従って、先の小丸峠、南沢峠、秩父峠などの別名も虚空蔵峠を指していたとも推察出来る(※1)。
また「秩父誌」によると「二子峠」と呼んだとも。恐らく芦ヶ久保にある二子山付近を通る峠の意味と思われている(※2)。
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林道を数分歩き、道標に従って左手から再び山道へ足を向けよう。
途中で写真のような辺りが開けた一帯に出るが、実は昔、スキー場があった場所らしい。興味深いので参考文献(※3)より纏めてみた。
西武鉄道の前身である武蔵野鉄道が昭和4年に飯能−吾野間を開通させたが、不況の影響で石灰岩の輸送が減り、経営不振となる。その打開策として、沿線の山々を「奥武蔵」と名付け、ハイキングの宣伝に力を入れた。そしてこの地を「奥武蔵高原」、無名の草刈場の入会地だった一帯を「刈場坂峠」と命名し、冬場の客足対策として「奥武蔵スキー場」をオープンした。しかし大雪だった昭和11年の1年間だけは盛況だったものの、その後の積雪はゼロとなり、結局、営業も中止となってしまったというのだ。
スキー場もさることながら、「奥武蔵」そして「刈場坂峠」と命名したのが鉄道会社だったとは意外な事実だ。
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牛立久保からの登りが最後のピークだ。
北側が大きく開け、はるか遠くの市街地までが良く見渡せる。
ピークから降りたところが終点、刈場坂峠。
鉄道会社が命名する以前、この峠は何と呼ばれていたのだろう?
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峠には無人の茶屋があり、車が1台止まったきりの閑散としたもので、長椅子の列が寂しそうだ。昨年は確か店の人がいたはずだが・・・、時期の問題だろうか?
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これにて本日の峠巡りも終了。あとは林道を下って正丸駅に戻るのだが、遠回りになるので途中で谷へ降りて近道をしよう。
道標はないが、林道を歩き始めて2、3分、写真のような電柱の間へ下る小道が左手にある。刈場坂の集落からの昔の峠道だと思われるが如何だろうか。
集落の人たちは峠を越えて越生方面まで米などを買いに出かけたという(※2)。秩父は、荒川を利用して農産物がはるばる輸送されてくるため値段が高く、その点、越生の方が安くて種類も豊富だったそうだ(※3)。
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道はハッキリしていて迷うことは無い。沢山の切り倒された丸太にビニール紐が結んであり、切り株にも番号のついたシールが貼ってある。現在は林業の人が使っている道なのだろう。
谷底に出るまでは散乱した小枝が足に絡まり少々歩きにくい。それでも谷につけば、チョロチョロと水の音が聞こえ、そのまま降りると沢沿いに合流する。結構楽しい道だ。
入り口から30分ほど歩けば再び林道に合流。1ヶ月前(2003年11月)に建てられたばかりの真新しい「高麗川源流記念之碑」の脇に出る。あとは林道をひたすら下り、車の排気ガスを我慢しながら国道299号を歩いて、1時間で駅に到着だ。
いやいや、奥武蔵の峠は奥が深い。まだまだ分からないことだらけだ。機会があったら昔の地誌をじっくりと調べてみよう。


(参考文献)
(※1)「峠道 その古えを尋ねて」(直良信夫著 校倉書房 1961年)
(※2)「山村と峠道」(飯野頼治著 エンタプライズ 1990年)
(※3)「増補ものがたり奥武蔵」(神山弘、新井良輔著 金曜堂出版 1984年)
(※4)「忘れられた峠」(内山雨海著 池田書店 1961年)
・コースガイドは「新ハイキング 2002年11月 No.565号」(新ハイキング社)を参考にした。

信州 小熊黒沢林道(サイクルツーリングの記憶)

今回のサイクルツーリングの記憶は、年代もすこし新しくなって、今から8年前の記憶です(それでも8年前です、ごめんなさい。)
今と路面事情等も違うでしょうが、当時の記憶を紐解いてみましょう・・・。


【 年月日 】 2007年5月
【 ルート 】 JR信濃大町駅−信濃木崎駅前−小熊黒沢林道−r325−信濃木崎駅前−JR信濃大町駅
【走行距離】 約40キロ
【 車 種 】 ランドナー


以前、神田のスポーツサイクル・アルプスの店内に飾られていた、雄大なパノラマ写真。
ご主人曰く、残雪と新緑が楽しめる5月の第三週がベストシーズンとのこと。
でも、この数年、仕事が多忙で第三週はおろか、GWも満足に休めなかった。
「今年も行けなかったです」とご主人に伝えるのが、毎年の恒例行事になりつつあった。
そうこうしているうちに夜行アルプス号が廃止、そして何とアルプスまでもが店を畳んでしまった・・・。
去年(2006年)、この相棒の色を塗り替えてから、まだ何処にも連れ出さないでいる。
そして、今年のGWは休めそう。
3年ぶりに乗る相棒。新たな気持ちで再スタートを切るには絶好の場所だ。
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夜行列車ムーンライト信州81号に乗るため、夜の新宿駅へと向かう。
今回は久々のフォーク抜き輪行。GW中の為、帰りの混雑で邪魔にならないよう、なるべくコンパクトにしたかった。
輪行袋はALPSオリジナルの超軽量タイプ。IMG_0004
信濃大町駅には5時過ぎに到着。
駅前にはタクシーが列をなしている。
5時40分過ぎに出発。国道もこの時間は車は殆ど通らない。
<ゆーぷる木崎湖>から林道を目指す。IMG_0006
登り始めていきなりギアをローいっぱいへ。
しかも、期待の絶景は、なかなか姿を見せてくれない。
とにかく我慢、我慢。
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綺麗な白樺林。
さすが信州という風景だ。
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やっと出会えた。この景色を待っていたのです。
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北アルプスを望む、壮大な山岳展望。IMG_0019
カーブを曲がったら、突然目に飛び込んできた。
思わず声が出てしまう。
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写真を撮りながら進むので、なかなか前に進まない(笑)。
この写真はお気に入り。
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写真はシーズンオフのサンアルピナ鹿島槍スキー場。
黒沢から鹿島川を渡り、県道325号を南へ。IMG_0034
長閑な田園地帯を下り基調で信濃木崎駅方面へ。
道路沿いには馬頭観音様を見かける。


夜行列車では一睡も出来なかったので、そろそろ睡魔が襲ってきた。
本当は温泉に浸かって一息いれたかったが、ここで休むと絶対動けなくなると思い(苦笑)、一気に信濃大町駅へと走り抜ける。11時にはもう車中の人となり、すぐに熟睡となってしまった。
とにかく、念願が叶い、大満足の一日だった。


 

東京・馬引沢峠から旧二ツ塚峠、大荷田峠、満地峠へ(サイクルツーリングの記憶)

今回は冬の陽だまりを求めて、五日市付近の小さな峠へポタリング紀行となりました。
今から11年前のお話です。大きな写真が残っておらず、小さい写真でごめんなさい。


【 年月 】 2004年1月
【 ルート 】 JR宮ノ平駅−r45(吉野街道)−林道−馬引沢峠−旧二ツ塚峠−r31(秋川街道)−二ツ塚峠−大荷田川沿い−大荷田峠−大荷田川沿い−R411(滝山街道)−旧満地峠−古満地峠−R411(滝山街道)−JR小作駅
【 車 種 】 ランドナー


冬の休日はなかなか布団から出られず、何度目かの目覚まし音で時間を確認したら既に朝の9時。結局この日も昼からのサイクリングとなってしまった。

吉野街道の畑中3丁目付近から見当をつけて脇道に入ると、林道が延びている。所々に簡易舗装も施してあるも、沢に沿った雰囲気の良い道だ。せっかくなので途中からノンビリと歩いて峠を目指した。
ところで馬引沢(まひきざわ)峠の「マヒキザワ」とは、「蟇沢」に接頭語マがついたという説がある(※1)。なるほど、林道の中では蛙の合唱が今にも聞こえてきそうだ。
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やがて峠に到着。南側の大久野へ下る道、すなわち写真正面のフェンスの先は大規模な産廃処理場があり、残念ながら道は消滅している。
なお鎌倉街道は榎峠から軍畑を経て馬引沢峠を通ったという説がある一方、西の梅ケ谷峠の方だとも言われている(※2)。

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続いて旧二ツ塚峠へ。この峠には二つの物語があるのでご紹介しましょう。
一つは、峠名の由来とも言われる、母娘の悲しいお話だ(写真をクリック)。二人の塚の前に歩み寄ってみると、真新しい花束がお供えされている。今でも地元の人に大切にされている証だ。自分もそっと手を合わせる。
もう一つは、二体のお地蔵様、いわゆる「傘地蔵」のお話(※2)。残念ながらお地蔵様のお姿は見えなかったけど、それだけ土地の人に利用されていた峠であったのだろう。

ここで正直に告白すれば、馬引沢峠も旧二ツ塚峠も、先の処理場のお陰で、今まで訪れるのを躊躇していた。しかし確かにフェンスはあるものの落ち着いた良い場所であった。

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フェンス沿いの荒れた道を下り、秋川街道に合流。そのまま北上すれば旧京塚峠(※3)、現在の二ツ塚峠だ。
車の往来が激しく、カーブの途中で立ち止まって写真を撮るのが少々怖い。

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大荷田川沿いに入り、右手に病院をやり過ごし、やがて左手(北側)の橋を渡って「万場(ばんば)坂通り」という坂道に入る。農道開鑿記念碑もある道を上りきれば、切り通し状のピークに到着。ここが大荷田峠(※3)?だと思う。
右手に山道が延びていたので、ぐるっと探索してみると、小さな畑や、廃車などを見かけた。
このまま峠を下れば、万場坂バス停のある吉野街道に合流するが、今回は大荷田川沿いに戻って満地峠を目指す。

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古満地峠まで足を延ばすことにしよう。
滝山街道の友田方面から旧道に入り、左手の階段へ向かう十字路の分岐点から右(西)へ登るとT字になるので、右から回り込むように尾根を西に進む。程なくして、「古満地峠 ←友田 菅生→」と書かれた小さな標識が木に掛かっている場所に出る。
(写真左が旧満地峠、右が古満地峠)
その後、旧道を引き返し、薄暗くなってきた寒空の中を小作駅まで駆け込んだ。


(参考文献)
(※1)「五日市町の古道と地名」(並木米一著 五日市町教育委員会 1984年)
(※2)「日の出町の昔ばなし」(日の出町文化財保護委員会編 1982年)
(※3)「増補改訂 青梅市史」(東京都青梅市 1995年)

山梨・柳沢峠から犬切峠へ(サイクルツーリングの記憶)

今回のサイクルツーリングの記憶は、群馬 万騎峠・二度上峠に続いて、久々のロードレーサーです。
下のプロフィールマップをご覧いただくとお分かりになるのですが、最後がブスッと切れてしまっています。果たしてその訳は・・・。


【 年月 】 2003年11月
【 ルート 】 JR勝沼ぶどう郷駅−塩山駅前−青梅街道(柳沢峠)−一ノ瀬林道(犬切峠)
【走行距離】 約42ロ
【 車 種 】 ロードレーサー


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無人の勝沼ぶどう郷駅を8時前に出発。塩山から「青梅街道・大菩薩ライン」に入り、右手に大菩薩嶺を眺めながら登っていく。
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時間帯のせいか、交通量は思ったほどでもなく悪い道ではない。ただし直線気味の単調な登りが「大菩薩の湯」辺りまで続き、辛いところであるが、その後はようやく九十九折になる。
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街道脇にある介山記念館。今日はお休み?脇には『大菩薩峠』の主人公、机竜ノ助の像がある。そう言えば『大菩薩峠』、未だに完読していないなぁ・・・。

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10時半に柳沢峠に到着。標高は1,472m。
晴天ならば富士山も見えるようだが、本日は曇り空のため展望は望めずに残念だ。
峠は車やバイクで結構賑わっており、奥の駐車場では登山服姿の人も見かける。
茶屋ではアイスクリームを販売しているが、さすがに買う人はいないですね(苦笑)。気温は4度ですもの・・・。)

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そのまま青梅街道を下り、落合から北へ左折、高橋川沿いの一ノ瀬林道に入る。
標識に従って右へ分岐し犬切峠を目指す。たまに車が通る位の、少し寂しげな雰囲気の道だ。なお一ノ瀬一帯は東京都の水源林でもある。

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新犬切峠は三叉路になっている。
林道はそのまま北へ延びて(写真では奥へ進む)一ノ瀬高原をぐるっと周回する格好であるが、ここは進路を東にとり、旧犬切峠を目指す。

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程なくして旧犬切峠に到着?(写真は少々場所に自身がありません、ごめんなさい)。
ここは一ノ瀬と高橋を結ぶ峠道だ。

「イヌキリ」とは「往ぬ、きり」だと述べた方がいる(※1)。他にも「”イヌ”とは痩せ地のことで、そこを切りひらいた」(※2)という地形説もある。更に漢字にすると何やら曰くつきの名前になる。案の定、次のような伝承があるようだ(※3)。 「250年ほど前に、一ノ瀬の忠兵衛という男が塩山に穀物の種を買いに行った。帰り道、悪い狼が出ると言われている峠に差し掛かかると、足元に狼らしきものが迫った。忠兵衛は脇差を抜いて切りつけたところ、狼の尻尾だけ見つかる。以後、峠には狼は出なくなり、それ以来、犬尾切峠と呼ばれ、明治の地図作成時に切られた狼と同じように”尾”が無くなって犬切峠となった。」
この伝承にしても、先の「往ぬ、きり」説にしても、この峠を越えることが当時はいかに大変だったかということが伝わってくる。一ノ瀬高橋は山梨県の最奥地、その生活には並々ならぬご苦労があったことだろう。
それにしても犬かぁ・・・。何しろ、今までもサイクリング中に足首を噛まれたり、番犬に追いかけられたりと散々だからなぁ・・・。嫌な予感。(-_-;)

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峠からの下り道。
最初は綺麗な舗装路だが、じきにコンクリのガタガタ道なってしまい、雰囲気は良いが、ロードでは相当に厳しい。次回は林道を下って集落の方まで訪れてみよう。 IMG_0036q
ガタガタ道も終わり、ようやく舗装路に合流。青梅街道の「おいらん淵」の合流地点に向けて更に下っていく。
しかし、ここで嫌な予感が的中した。カーブの途中、草むらから飛び出してきた犬!を避けようとブレーキングしたところ、落ち葉でリアが滑って、ガードレールに激突。

うーむ、「犬切峠」だけに尻尾を切られた狼の祟りか、それとも「おいらん淵」に沈められたという遊女たちの呪いか・・・。ホイールが自分の身代わりになってくれたお陰で、体の方は小さな傷と打ち身で済んだのが不幸中の幸いである。

このまま歩いて帰るのか・・・と呆然としていたところ、運良く1台の車が通りかかる。笠取山帰りの親切なご夫婦だった。事情を説明し、ご好意に甘えさせて頂いて奥多摩駅まで乗せて頂く。(東京の○○様、本当に有難うございました。)

(参考文献)
(※1)「多摩」(米光秀雄、滝沢博、浅井徳正著 武蔵書房 1969年)
(※2)「日本山岳ルーツ大辞典」(竹書房 1997年)
(※3)「多摩源流を行く」(瓜生卓造著 東京書籍 1981年)・・・一ノ瀬高橋、丹波村、小菅村のルポルタージュ。お薦めです。

2015年「ツール・ド・フランス観戦塾」簡易レポート

今年も「さいたまクリテリウム」が実施され、チーム「ジャイアント・アルペシン」のジョン・デゲンコルブ選手が優勝したのは記憶に新しいところです。
余談ですが、ちなみにクリテリウムとは小さな周回コースを走り競うものです。昔はマファック社から「マファック・クリテリウム」というブレーキもありましたので、そちらでご存知の方も多いかもしれません。
さて、その前日イベントとして「「ツール・ド・フランス観戦塾」が開かれましたので、今回はその観戦記です。(店員Kより)


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J・ SPORTSオンデマンドでも放送されておりましたのでご存知の方は多いかもしれませんが、「さいたまクリテリウム」の広報イベントとしてレース前日に開催されました。

出演者はツール・ド・フランス司会としてお馴染みのサッシャ、栗村修の両氏を司会とし、ロードレースではいくつも優勝を経験した生きる伝説のベルナール・イノー、そして、翌日走行予定の新城幸也・別府史之選手、そして海外招待選手のクリス・フルーム、ホアキン・ロドリゲス、ロメン・バルデ、そしてジョン・デゲンコルブ選手となっています。
ちなみにイノーといえば、1985年のツールで落車して鼻を骨折、鼻血を出しての激走を、当時はNHKでダイジェストが放送されたこともあり、ご記憶の方もいらしゃるかもしれません。

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最初のイベントはイノー、新城、別府選手らによる来年2016年のツール・ド・フランスコースの解説です。
その中で新城選手は「来年は3つのグランツールすべてに出場してもよいと思っている」と発言していたので今から楽しみですね。
(※グランツール:欧州で開催されるプロレースでジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランス、ブエルタ・ア・エスパーニャのことを指します。)

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続いて行われたのが、海外招待選手4名による法被ジョーヌをかけたクイズ大会です。

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1問目・2問目は簡単な問題なので難なく全員正解

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3問目もクイズと思いきや今回は絵心対決ということで、さいたま市のPRキャラのヌゥ君のイラストを描いて、一番美味かった選手が優勝というものでした。

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会場にもヌゥ君は来ていましたが、栗村氏は事前にお手本ということで描いてきており、中々上手です。

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海外招待選手4名は、あまり絵心はなかった模様でしたが、勝負師の目つきになり真剣に描いていました。しかしフルーム選手はヌゥ君をあまり見ずに栗村氏が掲げたイラストをジッとみて描いており最後にカンニングを指摘されていました(笑)

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最終的に優勝はデゲンコルブ選手となり法被ジョーヌと副賞の岩槻特産のミニ兜が送られていました。


という訳で、スター選手を身近に見るのは、良いイベントかもしれません。
「さいたまクリテリウム」も2013年に始まったばかりの、まだ新しいイベントです。マラソンと違い、自転車レースはまだまだ日本では馴染みがあるとは言えません。まだ試行錯誤だと思いますが、是非、今後とも続けて頂いて、お馴染みのイベントになる位、大きくなって欲しいと思います。

東京・五日市 子の権現様と周辺の峠(サイクルツーリングの記憶)

前回は奥武蔵、吾野の「子の権現様」訪問でした。今回はその2年後、東京は五日市、同じく「子の権現様」と周辺の峠行き(蛇野峠、グミノ木峠)、そして「横根峠」の記憶です。


【 年月日 】 2004年2月
【 ルート 】 宮ノ平駅−吉野梅郷−梅ヶ谷峠−西の入・ホオバ沢林道←→梅の木林道(肝要峠)−r184−岩井院・子の権現様−r31−蛇野峠−グミノ木峠−武蔵五日市駅前−r33−星竹−南沢・星竹林道←→横根峠−武蔵五日市駅前−拝島駅
【 車 種 】 ランドナー


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r184沿い、岩井にある岩井(がんせい)院の立派な境内の脇に、子の権現社があるので参拝しよう。昔は勝峰山の山頂にあったが、石灰岩採掘のため昭和2年に現在地に移転したそうだ(※1)。
伝承は、以前に参拝した吾野の子の権現様と似ている。ただし火傷を負った際に竜は登場しない。更に子の聖はお経を残してこの地を去ってしまう。そしてこちらも腰から下の病気に霊験があるという。合掌して健脚祈願、「どうぞ足が強くなりますように。」

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さて強くなった?足で峠巡りを続けましょう。

まずは蛇野峠。「日の出町史」(※2)で見つけた峠で、坊平(ぼうへい)と玉ノ内を結ぶ。
よく寄らせて頂く地元の喫茶店のご主人に伺ってみたところ、確かに峠状の場所があるとのこと。そして近くの藤が蛇のような形をしており、そのせいか蛇と関係した昔話を聞いたことがあると教えて頂いた。ご主人様どうも有難うございます。
その藤は標高265mの八幡山にあり、「大久野の藤」として都の天然記念物にも指定されている。なるほど、アラカシの大木に大蛇のごとくグルグルと巻きついている。よくもまあ、こんなに絡まったものだ。
裏手には石祠が祀ってある。恐らく昔は御神木「蛇の木」のある「蛇の木峠」と呼ばれ、それが短縮して「蛇野峠」になったのではなかろうか。

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峠(写真)には水道局の配水所施設がある。また坊平側はダートな路面が残っている。
その道を一生懸命登っていたら左足が攣ってしまった。あれ、お参りしたばかりなのに(泣)

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お次はグミノ木峠(写真)。並木氏「五日市町の古道と地名」に載っている。小机と幸神を結ぶ峠で、五日市と青梅を繋ぐ青梅古道だった(※3)。
H8年発行の地形図では道は破線で描かれており、先の本には緑に囲まれた雰囲気の良い土の道の写真が掲載されていたが、現在では既に舗装済である。勾配も緩く、自転車ではアッという間に通り過ぎてしまう。

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その後は武蔵五日市駅前を通り過ぎ、本日最後の峠、星竹と本須を結ぶ横根峠(横峰峠)の場所の確認へ向かう。こちらも前述の並木氏の著書に「金毘羅裾道」として記述があり、概念図は宮内氏「奥多摩」に掲載されている。
写真は星竹にある普光寺傍の道路脇にて。左から馬頭観世音、百万遍供養塔、御神燈。

星竹から南沢・星竹林道へ進む。しかし峠近辺まで来ても、峠道が見当たらない。日没のタイムリミットが近いため、金毘羅尾根経由で回り込む余裕もない。林道に自転車をデポし、空身で斜面を強引によじ登って、尾根に取り付く。
「もはや峠は残っていないだろうな」と余り期待もせずに、送電線の鉄塔脇にて周囲を見回したら・・・。

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嬉しいことに、峠は綺麗な形で残っていた!
写真正面は本須へ向かう道。どうやら歩けそうな気配だ。
手前、林道方面も道は伸びている。
右手の巡視路の黄色い杭の先にも道がある。恐らくこれが金毘羅尾根から派生する尾根道だろうか。少しだけ歩いてみると、杉の木々の間に紐がピンと張られているのを見かける。雪起こしの為だろうか?

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峠の周囲を色々と確認したかったが、もう日没間近なので、急いで峠から林道へ戻る。山腹に沿った道を東へ緩やかに下るとミラーの設置してある左カーブ地点(写真)に飛び出した。
林道から星竹方面を覗いてみると、踏み跡らしき道筋を見つける。もしかして旧道なのかもしれない・・・?

自転車のデポ地まで戻り、林道を引き返した。次回はぜひ本須へと抜けてみよう。


(参考文献)
(※1)「語呂合わせの神々 秩父・奥武蔵 謎の伝説」(神山弘著 金曜堂出版部 1987年)
(※2)「日の出町史(通史編上巻)」(日の出町史編纂委員会 1992年)
(※3)「五日市町の古道と地名」(並木米一著 五日市町教育委員会 1984年)

埼玉・子の権現様と周辺の峠(サイクルツーリングの記憶)

「子(ね)の権現様」は、足腰の守護と言われており、サイクリストにはぴったりのお寺です。今回は奥武蔵、次回は五日市の子の権現様と各地にあるようですね。
という訳で、権現様に参拝後、付近の峠も一緒にパスハンティングすることにした訳です。果たして御利益の程は・・・。


【 年月日 】 2002年10月
【 ルート 】 西武鉄道 吾野駅−R299−吾野・飛村林道−栃屋谷林道−権五郎神社−並沢−双沢林道−子の権現様−子の山林道−天目指峠−原市場名栗林道−仁田山峠−r350−倉掛峠−r70−西武鉄道 飯能駅
【 車 種 】 ランドナー

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西武線吾野駅を午前9時過ぎに出発。
高麗川に沿ってR299を東に進み、西武線の高架を潜りENEOSのガソリンスタンドを通り過ぎると、右手の川に掛かる南天神橋という小さな橋が現れる。そしてこの橋を渡るとすぐに、林道「吾野・飛村線」の入り口があった(写真)。
入口の民家を過ぎると、いきなりの急坂だ。地図からして予想通りだが、朝一番の上り、それも体が慣れる前の激しい運動の為、早くも心臓がバクバクだ。暫く地面に座り込み、水分を補給しながら呼吸を整える。 
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上りきったあとは飛村のT字路に向けて一旦下る。
そのT字路は右折し、林道「栃屋谷線」に入る。再度の上りだ。
そして林道上のピークに到着(写真)。覚悟はしたが、やぱりキツい。休憩がてらに付近をウロウロしていたら、道から外れた右手に祠を見かける。名も無き峠だろうか?
続いて栃屋谷方面へ向けて下るとY字路にぶつかる。ここでようやく「子の権現・あと4キロ」の案内板がある。
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Y字路には、赤い鳥居の権五郎神社がある。平安末期の保元の乱に登場する片目の武将、鎌倉権五郎景政を祀っているそうだ。(※1)。

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静かに佇む集落の坂道をゆっくり上る。
実はこの道が権現様の本参道で、大正時代には縁日では参拝者で大変な賑わいをみせ、茶店も道に並んだという(※1)。

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並沢のY字まで来れば、分岐を右折して林道「双沢(ならびさわ)線」に入る(写真)。あと1.5kmの表示あり。ここから又もや急坂だ。

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杉林に囲まれた静かな坂道を息を切らしながら一心不乱に上っていると、上の方から鐘の音が聞こえてくる。荘厳な響きが何とも心地よい。目的地まであと少しだ。
更に上っていくと「残り300m・急坂あり」の案内板がある。急坂って、今までのは急坂じゃないの?とブツブツ言いながら進むと、ごらんの通りの”激”坂だ。上っていく軽自動車が本当に大丈夫か心配して見ていたほどだ。

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やっと権現様に到着。門の手前に自転車を停めて、2体の仁王様が控える中を本堂に向かう。
平成14年第19号の「子の権現」誌によると、お寺に水道は通っておらず、湧き水を溜め、それをポンプで汲み上げているそうだ。風呂や洗濯等には雨水を利用しているとのこと。山寺ゆえの大変な生活だ。

ところで「子の権現様」は、正式名称を大鱗山雲洞院天竜寺と言う。天長9年(832年)、神々から剣を口の中に突き通された夢をみて懐妊した紀伊国の阿字女という処女から、子年子月子日子刻に誕生した子ノ聖が、東北の羽黒山から聖地も求めて般若経を投げたらこの地に落ちた。その聖光を頼りに当地を踏むが、寝ている隙に悪鬼の火攻めにあって腰から下に火傷を負ってしまう。その時、瞑目して祈念すると、突然天竜が現れ、雨を降らして猛火を消してくれたそうだ。それ以来、腰から下の病気に霊験があるという(※1)。
ちなみに、修行中の身でありながら、通りがかった美しい女性と恋に落ちて、その女性と焚き火をした時に、火が野原に移ったのを気がつかずに火傷を負ったと言う話もある(※2)。やはり火遊びはホドホドに。(^^;

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写真は境内にて。左は昭和38年に奉納された重さ2トンの大きな草履だ。奥には赤と白の下駄もある。そして写真右は本堂。「どうぞ健脚になりますように。」
本堂の裏手の小さな丘には鐘がある。先ほど聞こえた鐘の音は、この鐘だったのかもしれない。その後、境内でお守り2つと、参道に1件だけある茶屋でキーホルダーを購入。計1500円也。

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参拝も無事終り、次は天目指峠を目指す。
林道「子の山」線」で上久通まで一気に下る。そして今度は天目指峠へ向けて再び上り返す。もう疲れて足も回らず、押しの多用だ。
写真はその天目指峠。峠には開削記念の銘板がある。旧峠は西の高畑山方面に少し入ったところにあるようだが、残念ながら現地では確認しなかった。

ところで、「天目指峠」の命名の由来はご想像つきますか?名前からして古代の天女伝説でもありそうな感じだが、峠の案内板を要約すると以下のとおりだ。”天目”はこの付近の方言でアマメ、豆柿を意味し、この辺りは柿が非常に豊富だった。また”指”とは、山を焼いてその後に種を蒔く焼畑のこと。やはり当て字だったのだ。

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天目指峠を下り、名栗湖手前を東に左折して林道「原市場名栗線」の上りへ。
まだ緑の景色だが、秋の気配がどことなく感じらる。

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名栗村と飯能市の境界線上にある、切り通しの仁田山峠に到着。「ニタ山」とは湿地帯にある山の意味だろうか?峠の杉の木に大きな藤が巻きついていたので、藤巻峠とも呼ばれたそうだ(※2)。また、道路脇に木の鳥居がある。この山の遥拝所だろうか?

峠からは更に上りが続く。そして上り返しも多いので、とうとう足が痙攣してしまう。先ほど権現様で足腰守護のお守りを買ったのに(;^_^A

さて、いよいよ残る峠もあと1つだ。
林道を下ってr350に合流する。飯能へ向けて下っていると、道路脇右手の草むらに何やらガサゴソ動く気配が。最初は犬かと思い段々近づいて行くと、それは何と野生の鹿だ。慌てて写真を撮ろうとするが、あっという間に山肌を駆け上がって消えて行った。
まさか車も頻繁に通るこんな道で鹿を見るなんて・・・。目の前を通り過ぎる車をよそに、一人で興奮した。

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入間川方面へ軽く上り返せば、すぐに倉掛峠だ。
地元の方のお買い物自転車も通る、こちらも綺麗な切り通しの峠だ。少し下ったところに峠の開削工事記念碑もある。

これで今回の目的はすべて終了。あとは飯能駅まで緩やかに下って行くだけだ。
途中の入間川沿いでは、ちょっとしたダートを楽しむ。15時に駅に到着した。

東京は五日市の「子の権現様」にも訪問しております。
その記憶はこちらです!


(参考文献)
(※1)「秩父奥武蔵 山と伝説の旅」(神山弘著 金曜堂出版 1985年)
(※2)「増補ものがたり奥武蔵」(神山弘、新井良輔著 金曜堂出版 1984年)