『ハイキング誌」とサイクリングの歴史その3 

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戦前の『ハイキング誌」とサイクリングの歴史 その3

■第65号(昭和12年1月/特集:山岳随筆 晩秋初冬)
ハイキング第65号表紙

 
●<私のサイクリング手帖(三)>「岳麓を衝く」・・・河合映夫 (五四) 下段4頁
連載の三回目です。先の「サイクリング特集号」に刺激されたという筆者、
「元々相当に無理なプランなので、夏至に最も近い日曜が好ましく思はれ、六月二十日を選んだ。」
と断りを入れおてります。早速見てみましょう。
 
夜中の2時15分に自宅である東京都品川区の荏原を出発し、甲州街道の大垂水峠には5時38分到着、すぐ10分後に出発。
 
「何時も乍ら何と豪快で勇壮な下りであらう。実に大垂水こそ近郊サイクリングのメッカとも称すべきで、汗を流し息を切らして浅川側の狭い谷を登ってきただけに、突然展開された甲相の群山、相模川の峡谷への眺望と、風を切つては驀走する爽快味は実にサイクリングの醍醐味である。」
 
そうなんです。この景色の劇的な変化が感動モノなんですね。
ところで、道路の状態はどうだったのでしょうか。長文ですが引用します。
 
「道路がその府県の貧富を表はすものとすれば、大垂水から此所迄の短距離の間は、その典型とも云ひ得べきで、国道であるこの甲州街道に於いてさへ、大垂水迄の東京府下は舗装されており、其所からこの橋迄の神奈川県下は、舗装こそされてゐない迄も坦坦たる気持ちの良い道であるが、橋を越えて甲州分に入つた私は、先づその道の悪さに驚かねばならぬ。(もっともこの辺りが一番ひどい箇所であるが。)上野原、四方津の間は工事中であつて、一層悩まされた。」
 
7時15分に猿橋、8時35分に大月駅の待合室

「新しく敷いた砂利道は私達には苦手だ。」

 
今のように舗装路を700Cの細いタイヤで・・・という訳には行きませんね。
 
「<自分の足で来た>と云ふ感激は胸を高鳴らせ、運んで来て呉れた自転車が愛ほしく思はれる。11時丁度、それが私の富士吉田駅前に立った時間だつた。」

 
皆さまもご経験があると思います。サイクリストなら、今も昔も、思う気持ちは一緒です。
 
「流石に足、腰、腕などが痛む。親しき限りへ便りを書き、腹の方の用意も充分に、十一時三十分、吉田を後にする。期節(ママ)外れの町は到つて閑散で、店の人達のお愛想迄悪い。」
 
流石に疲労が蓄積して、筆者もお疲れ気味のようですね。
 
その後のルートです。
 
 山中湖の湖畔に0時30分-籠坂峠は同50分(10分の休憩、13時丁度に出発)-15時半に松田-平塚に17時40分-横浜駅に20時丁度-大田区六郷橋に21時半、そして自宅というルートです。
 
最後に、
「(全行程60里。正味疾走時間凡そ16時間45分位。使用車は実用型)」
 
とありますので、走行距離は約240Km、時速は14km/h位でしょうか。当時の道路状況、峠路、自転車の重量、タイヤの太さ、変速段数(実用型とありますが、シングルスピードでしょうか?)を考えると脱帽するばかりです。

●「私も正丸峠へ」・・・福島清岳(五四) 上段3頁
 

東京都港区麻布から、朝の4時半に地図も持たず、目的も定めず、18時半に自宅に戻るまでのミニ記録です。
 
正丸峠は私も徒歩で歩いております。(記事はこちらです。) 
ちなみに「奥武蔵」という名称ですが、鉄道会社が命名したことはご存知ですか?  
「増補ものがたり奥武蔵」(神山弘、新井良輔著/金曜堂出版/1984年)という本から要約しますと「西武鉄道の前身である武蔵野鉄道が昭和4年に飯能=吾野間を開通させるも、不況の影響で石灰岩の輸送が減ってしまい、経営不振に陥る。その打開策として沿線の山々を<奥武蔵>と名付け、ハイキングの宣伝に力を入れた。」という理由だそうです。
鉄道会社の命名というのは驚きですね(ちなみに「刈場坂峠」の命名も同様です。)詳細は先のリンク先の記事をご覧ください。

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